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肉体も感情も思考も自動運転だから我々人間には制御できない

私は学生時代に自己啓発系の本を読むのが好きだった。

自己啓発本には次のようなことが書いてあるものである。

「思考を変えることができれば、未来は自分の思い描いた通りになる。」

これは世の中を知らない私からすると随分と画期的な考え方で、未来がものすごく明るく見えたのを記憶している。

しかし、それから10年以上経って考えるのである。

そもそも思考を変えることは可能なのか、と。

私が考える結論から言えば、思考は自動運転をしているので我々人間には制御できない。

もう少し細かく言うと、思考は自身の健康状態や動作、周囲の状況、数秒前の思考や過去の記憶からの連想によって自動的に生み出されているということである。

いくつか例を挙げよう。

①睡眠不足・泥酔・高熱の時は、普段のように物事を考えることができない。

②開始前にやる気の無かった掃除や勉強が、始めてしまえば楽しくなっていた。

③テレビで紹介されている餃子があまりにも美味しそうなので、急に餃子の王将に行きたくなった。

④真夏の夜に暑くて目が覚めた時、寝ぼけながらも「暑い→エアコンをつけよう→水も欲しい→冷蔵庫の水を取りに行こう」と連想した。

⑤京都のお寺で座禅体験を行い、流れゆく思考を見つめることに集中していたが、お腹が空いていたせいか急に天下一品のこってりラーメンを食べたい衝動に襲われ、我を失った。

⑥怒らない人になろうと決意したのに職場や家庭でイライラして怒ってしまい、数時間後に「あそこまで言う必要は無かったかも」と理想の思考と現実の思考が乖離していたことを後悔した。

以上の例をもって、人間は「こう考えよう」と事前に決めて思考しているわけではないことを私は伝えたかった。

特に⑤と⑥の例については、思考が我々の思い通りに働いてくれないもどかしさを表している。

試しに頭がクリアな状態で「何か1つの事を考えよう」とやってみてほしい。

(下に続く)




なんらかの概念や言葉、映像を思い浮かべることができると思うが、では一体なぜそのテーマが選ばれたのだろうか。

もっと違うテーマでも良かったのではないか。

そのテーマは自分の意思で選ばれたものなのだろうか。

実は過去の記憶の中から脳が自動的に選択したものではないか。

そして、もし思考を制御できると考える方がいたら、ベッドに横になった状態でも外出するタイミングでも良いので自分の思考を観察し続けてほしい。

必ずどこかのタイミングで、過去の記憶だったり目や耳から入ってくる情報によって思考が自動運転モードになっていることに気付く。

なお「ここから思考を制御しよう!」という試み自体が「それ以前は思考を制御できていなかったこと」に対する反射であるため、「ここから思考を制御しよう!」という思考自体が思考の自動運転の中に含まれてしまう。

したがって、思考の観察は可能だが、制御は不可能だということである。

思考を制御できないならば、感情や肉体は言わずもがなである。

さて、それではここからどういうことが言えるだろうか。

まず、過去に対する考え方である。

過去の失敗を引きずって後悔して自分を責めている場合はこう考えればよい。

「思考も感情も肉体も自動運転なのだから、その時そうなったのは必然であり絶対に避けることはできなかった。過去を受け入れて今の自分を許してあげよう。」

では、現在と未来についてはどうか。

思考も感情も肉体も制御できないならば、自由奔放に好き放題やってもいいのだろうか。

そんなわけがない。

むしろ、自分の思考を制御できず、自身の健康状態や周囲の環境が思考に影響を与えるというのであれば、人は健康な体を維持し、健全で美しく善いものに触れ続けていなければならない。

そうでなければ、人間は醜悪な心を持った獣と化してしまう。

子供の教育が大切なのはこのためである。

もちろん大人も、健康的な食生活・十分な睡眠・運動、良書・名作映画・良質な音楽に触れること、性格が良い人との付き合い、悪いニュースやネット上のネガティブコメントから距離を置くといったことを徹底していかなければならない。

普段の正しい行動が正しい思考を生み出し、我々の運命を決めることになる。

思考が行動を変えるのではない。

行動が思考を変えるのである。

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